沖縄県が梅雨明けしたとラジオで聞いた。
そして今日、出勤するときにアパートから出た瞬間、驚いてしまった。日差しが夏のそれになっていたからである。湿った空気も相まって、非常に暑い一日であった。というか今も部屋が蒸し暑くて、敵わん。
最近『季節の記憶』という本を読み終えた。鎌倉に住むシングルファザーとその息子が、ただ日常を過ごすだけの内容。(冗談抜きでそういう内容なの、ほんとにほんとに)
ネットの記事でおすすめになっていたから、大きな期待もせずに読み始めたのだけど、最後には不思議な余韻が残る物語だった。
すべて主人公の父親視点で進んでいく話で、その息子、そして彼らをとり囲む人物や環境が、主人公の淡泊とも思える思索の一端に折につけ触れられて、また読み進めているうちに主人公だけでない登場人物らの性格や行動も、すべてに“意味”(あるいは意識?)を持たされているような気持ちにさせられて、気付けば終わっている。
人間は言語に還元されている、という考え方も斬新だとは思ったし、なによりも「言語化するより前に、溢れてきてしまう気持ち」があるとすれば、それは「季節の記憶」を人間が積み重ねていくことで増えていく、との記述は唸らずにいられなかった。
おれは季節でいうと冬が好きだ。さびしい感じがすごく好きなのだ。
もうすでに、曇り空な冷え込む電車のホームとか、夕暮れ紫紺に染まった田んぼをすべる冷風とか、ホットコーヒーを飲んだ白い公園の吐息とか、そういうものを想像しては早く冬が来ないかな? と思ったりしている。
でも、夏の夕焼けと、風鈴の音色と、祭り太鼓と、ひぐらしが鳴く声と、車窓に置く冷えたラムネ瓶と、そこから見る一面の青と緑は、やっぱりどうしてもさびしくて好きで、こうして書いてみて思ったのは、おれは冬になる前に冬っぽいことを考えるのが好きで、きっと冬になったら夏のあれこれを考えているのだと思う。
寺山修司はいった。「書を捨てよ、町へ出よう」
今年、おれの「季節の記憶」はどうなるか? 夏はすぐそこ。
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