「この辺りでいいか」
湿り気を帯びた砂の上にヒルジが荷物を降ろす。足元をスマートフォンのライトで照らした。数時間前の通り雨はすでに砂中へ浸み込んで、一面に雨粒の跡を残していた。
「うん」
「サク、そこに椅子を組み立てよう」
「分かった」
ヒルジとサクは黙々とアウトドア・チェアを組み立て始める。
とくに理由もなく、僕たち三人は真夜中の浜辺に来ることにした。ヒルジが星を見たいと言ったことがきっかけだったように思うが、夜空は厚い雲に覆われていて、ほとんど見えることはなかったのだけれど、なにか理由があるから海へ行くのではなく、「海へ行くか」と問われたら僕たちは自然に承諾しているので不思議に思う。
吹き抜ける風が、漆黒の海面に白波を立たせる。
仄明るい月光が数キロ先の汀(みぎわ)まで映し出す。すぐそこに迫るような砂と波の打ち砕ける音は、一定のリズムを刻んで残響していく。ずっと聞いていると、なんだか健やかな眠りにつきそうだった。
「一通りいいか」僕も持参したチェアを完成させて腰をおろす。途中のコンビニで麦酒とつまみを買ってきていた。
三者が中央の簡易テーブルを囲む。中央にはガスランタンを用意していたので、とろ火で辺りを照らした。かろうじて二人の顔が闇から現れた。
ヒルジが恭しく音頭を取る。「じゃあ、乾杯」
サクと僕も続いて杯をぶつける、バドワイザーの瓶がかちんと鳴った。
ふいに僕は虚空を見上げた。「星出てないな」
「晴れてたらすごいんだぜ」
「そうだな。今でも雲の隙間から見えているもの」
「星が見える、じゃあ早く帰ってこないとな」サクの眼が怪しく光る。ニヒリストの彼は不敵な笑みをよく浮かべる。
僕は東京で暮らしている。
確かに、この星空はここでしか拝むことはできない。見上げたときに映る空の広さが、比較できないほど大きい。それもここへ帰って来てすぐに気づいたのだが、島の建物はすごく背が低い。遮るものがないから、目に飛び込んでくる面積も広大だった。
「じゃあの使い方が変じゃないか」僕は応戦する。
「じゃあ帰らないのか?」
「くっ」今度は正しい。返す言葉なく、もう負けた。
僕はお盆休みのため地元に帰省していた。
育った地域は盆を旧暦で行う。旧暦といっても、まだまだ夏の気配が盛る時期だ。特有のスコールが町を潤すことも度々ある。
帰ったその日に幼馴染のヒルジとサクが夜遊びに付き合ってくれた。いつまでも変わらない友人たちだ。
……と、そう思っていたのは、しばらく黙りこくっていたヒルジが口を開くまでだった。
かいた汗がアルコールでゆっくり補填されるように、酔いが心地よさを醸し出してきたときだった。
「おれ結婚するよ」
「え」
ざばあん。
波の音が強く鳴り渡る。すかさず東映作品のオープニングが頭に鮮明に流れた。あれは「荒磯に波」というらしい。しかも日本海ではなく太平洋だという豆知識まで思い出される。
「結婚?」
「そう、結婚」
「いつ」
「もう届け出た」
「は!」
口にあてかけた麦酒瓶が勢いよく振り出しに戻る、泡が立ってしまっただろう。「それはするじゃなくて、したというんだ!」
さっきから言葉のアヤばかり指摘している僕はとても狭量な人間に違いなかったが、そんなところに拘ることでしか食い下がることができなかった。
すでに知っていたのか隣のサクも奇妙な沈黙だった。
「サク、お前知ってたのか」
「いや、初めて聞いたよ」
「な、だったらお前、なにを落ち着いているんだ!」
静謐な漆黒の浜辺で慌てているのは僕一人だったが、やはり得体の知れない焦燥が僕を襲っていた。
サクは両の手で握っていた瓶を置き、考え込むように俯いたかと思えば、すぐに正面を見つめた。
「おれ、カナダに留学するよ」
「んあ?!」
ざっぱーん!
今宵、二度目の東映だ。もういい。もういいよ。僕の心はいま潮だまりだ。
「いつ」
「できればすぐ」
「仕事はどうするんだ?」
「もう辞めたよ」
「は!」今度は麦酒瓶を落とし、慌てて砂を払った。
この二人はなぜ言ってくれないんだ? 勝手に決めて、相談もせずに――と思ったのは束の間だった。
なぜ僕に言う必要があるのか。決断はいつだって一人なのだ。これまでも、これからも。二十代も半ばになる僕たちは、もう誰かの跡を追うことも出来なくなっている。危ぶめば道はなし、とはプロレスラーの言葉だったか。ヒルジもサクも自らの道を歩み始めた。砂漠に取り残される僕の残像がよぎった。
「二人とも大人だな」僕の声音は消沈していた。言葉はアンカーのように暗い海中へ沈んでいく。
「なにをしたら大人?」ヒルジが言う。
なにをしたら大人? なにをしたら大人? 彼の質問を反芻してみた。結婚? 子どもをつくること、そして育てること。留学? 日本を飛び出すこと、未知を知ること。
僕はなにをすればいい? なにをすれば大人になれる? まだゲームもアニメ好きで、いまの仕事に情熱なんてない。毎日アルコールを摂取しすて、幼い記憶を忘れていくように終わらしていく。
目を固くつむった。
二人の視線が僕に穴を開けているような気がした。闇夜より濃い影がヒルジからどんどん伸びて僕を見下ろしている。サクはこう言いたいのではないか。
――お前は生きててなにがしたいの?
「おい、大丈夫か」ヒルジの声だ。
ランタンの炎が穏やかに揺れている。顔をあげれば微笑む彼の顔が見えた。
とても刹那的な悪夢を見ていたようだ。
「ごめんな、驚かせて」サクが呟いた。
いつも過不足ない自信家であるサクの謝罪を聞いて、逆にこちらが呆気にとられてしまった。
「え、いや、謝ることなんてない。僕こそごめん」
真夜中の海が見せた亡霊はすっかり消えていた。
ヒルジとサクは新しい日々の朝を浮き浮きとして過ごすだろう。その真心や人間性はきっとそのままに。人間が変わるのは、得てして行動だけだと気づいた。
「僕は」僕は思いついたように、口を開く。
「おう」
「僕は物語を書く」
ざざあ。
僕は静かな波の音。けれど、心が洗われたように思うのは、比喩でない。
「そう言うと思ったよ」分かっていたように振る舞う二人だ。どちらも呆れたように鼻を鳴らした。
「そろそろ行こう」僕はすっくと立ちあがる。
砂上に一歩、足跡。
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