海老が食べられなくなってきた


どんどん虫に見えてきた!(死)



 どうも皆さんこんばんわ。しばらくブログから離れておりました。

 ご想像のとおり、世間はお盆の時期に入り勤め先も長期の休みを取れることから、バカンスも兼ねてすたこらさっさと帰省していました。


 家族と顔を合わせ、気の置けない友人と語らい、時には一人で無為な時間を過ごすこともあったのですが、今年の夏もまた一味も二味も違ったなあという印象です。

 この文章を読んでくだっさている数少ない方には、なんとなく僕の仕様もない性格を感じ取っているかと思いますが、僕は答えの出ない問題をくどくど考えすぎるきらいがあるため、勝手にストレスを作ってしまうことがあります。


 人間は、目に見えないことに名前を付けて扱うことができる唯一の生き物ですが、そのお陰でどうしようもない袋小路に陥ることもしばしば……

 その時に助けてくれるのは、やはり自分の五感をくすぐる何か。肩に置いてくれた手、会いに来てくれた額の汗、真剣な眼差し、一生懸命な筆跡、大笑いして見える歯、何度も聞いた声。自らの内に湧きおこる有象無象がとても大切なものと信じ込む精神主義だったのですが、ここ最近は考え方も少しずつ変わってきたように思います。


 もちろんそういうような空想(妄想)を大切にする姿勢は変わらないのですが、それらをどう表現したいのか?  と考えるようになったのです。

    文章か、音か、映像か、あるいは物質なのか。どのような形であれ、自らを表現することは、とても難しい。けれども楽しいことは間違いないのです。そしてこのような「行動」というのは、思わぬ効果をもたらすこともあります。

 

 例えば、やる気・不安・自信・羞恥・嫌悪・etc...

 こういう精神の揺らめきは、縮小と膨張を繰り返して、ときに自らを縛り付けてしまう強い枷となることがあります。

 仮に「やる気」が無いという理由で、僕はブログの執筆が滞っているとしましょう。一つの記事を完成させることが目標なのに、とてもやる気が起きない、ブログはとても精神的な活動を要する、と。

 しかし、目の前にPCがあって一文字一文字「u n k o m o r e s o u」とタイピングしていけば、品質はさて置き記事はできるはずです。目標であった記事を完成させ、それを達成できないストレスから解放されるはずなのです。

 ですが内なる僕はきっと理由をつけます。「いや、やる気がないから、それすらも出来ないのだ。とても困難なのだ」と。

 そのとき、それは強く否定しなければいけません。僕は寝たきりの重病患者ではありません、五体満足の社会人です。部屋を自由に動き回れるし、冷蔵庫を開けてグラスにビールを注ぐこともできる。では、PCを起動してブラウザを立ち上げて「u n k o m o r e s o u」とタイプすることもできるではないですか。僕は内なる僕に言います。「ビールを注ぐとき、君はやる気があるから注げるのかね? やる気があるから歩けるのかね? 君は特定の行動に対して“やる気”を持ち出して、それがないから出来ないと装っているのだ」


 行動の思わぬ効果とは、解放です。ドラゴンボールってやっぱりすごくて、精神と時の部屋ってちゃんとあるんですよね。その部屋でこねこねストレスの塊を捏ねていると、とても時間を食ったり、ひどく疲れたりするんですよ。だけれど困難に思えていたことも、自分がやってみると大したことなかったりするものですよね。



 だからこそ、紳士諸君、初恋の思い出に浸ってる場合じゃないじゃないぜ!

 今年はひと夏のアバンチュールを楽しむためにも、どんどん海へ行こうぜ! 湘南へ行こうぜ、そしたら小麦色の水着ギャルに「海老って虫っぽくね? シャコとかさ、もうフォルムだけ見たら地上の虫より虫じゃね? え、シャコ知らない? だよね、まじ卍!」って言ってシラス丼食べ行こ!!!

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