時刻は夜21時を回ろうとしていた頃、隣に座る後輩が一言「まだやってるんですか。そんなこと」と告げ、それには少々の蔑みが含まれていたが大半は呆れている様子で、おれは先輩なのだからその後輩の社会人あるまじき発言を注意してもよかったけど、それはできなかった。なぜなら後輩の彼女はおれよりも随分と仕事ができて、もうすでに何年か早く入社したからというアドバンテージさえ無いにも等しいほどになっているから、おれは子犬のように返事をして「ごめんね」と謝る他なかった。
彼女は続けて言うのだ「先輩はまずメッセージの返信が遅い、遅すぎます。はい、だけでいいところを、よろしくお願いします、とかいちいちいちいち返信しないでいいんですよ。分かりましたか。だから今打ってるその返信も、ちょっと貸してください。はい。これもはい。これは分かりました、これも、これも、これも。これは死んでください」と、おれのデスクに身を乗り出してはキーボードを連弾のように打ち付けて、最後の部長宛ての社内メッセ―ジの返信には肝を冷やしたのだけど「仕方ないですね、これは消してあげますよ」と懇願の果てに許しを得て、とりあえずは誰かに急ぎの返信をすることはなくなったのだ。
しかし彼女は隣からなかなか動かなくて少し密着した体勢で身じろぎもできないから「ありがとう。もう大丈夫だから」と言ってどけようとしたら「先輩」と出した声は震えていて、そうすると彼女はパチ、パチ……とキーボードをゆっくりと打ち込こんで、目の前の画面にはゴシック体が表示されていった。「せんぱいが せんぱいがぜんぜん しごとできないので もうすこしわたしが このまましごとしてあげます」いやいや後輩にそんなことさせるほどまだ落ちぶれたつもりはないし、こんな時間まで女の子を残しておくわけにもいかないので、おれは何だかやけに静かになった後輩の肩に手を置き「気持だけで受けとるよ」と顔を覗き込んだ瞬間だった。
景色はなぜか見えるはずのないデスクの後ろに位置するキャビネットをとらえていて、その刹那の後、彼女の声が聞こえた「先輩の馬鹿! もう知らない」と、そこで理解したのだ。掌底だった。おれが顔を彼女に近づけたとき羞恥の力が渾身の掌底を生み出しおれの顎を砕きながら、その威力は顔面を180度回転させ、そうして出口へ消え行く彼女に「サツキみたいにがんばりやだね」と、後輩を励ましながら死にたい。
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2018.11.13 11:58