後輩

今年の四月で仕事を辞めようと思っていました。その矢先、新人が配属されました。僕は四年目にさしかかったところでした。新人の彼女はすごく初々しく見えて、羨ましくもありましたが、これからの退屈な毎日に嫌気がさして退廃的になる姿が容易に想像でき、わずかばかり悲しくなりました。当然ながら、彼女に年数の一番近い僕が教育係になりました。気付かない訳もないですが、彼女は初めの挨拶の時からイントネーションがやけに尻上がりで、職場の皆から問い質されると「福岡です、出身は」と倒置法を使って答えたのでした。僕はいずれ近いうちに仕事を辞めることを意識しながら、彼女に仕事を教えていきました。初めは口数の少ないビー玉よりも面白味のない僕に、なにやら嫌悪のような感情を抱いていた節がありました。それはある日です、僕が手元にペンを持っていなかったので彼女から借りようとしたのです。指が触れたのでした。「先輩、指が当たったんやけん。セクハラたい」その直後「……です」と申し訳程度に敬語を使います。彼女は僕をあまり敬う対象と認識していないのか、僕にだけたいへん無礼な話し方をします。ですが、僕は仕事を辞めるのでそんなことを露ほども気にしていませんでした。つい先日のことでした、僕の職場は十月にも人事異動がありますので、そろそろ潮時かと感じていたこともあり、唯一の後輩になった彼女へ伝えるべきことを伝えました。「え、うそですよね?」僕の想像以上に驚いていたようでした。しかし真実は伝えないといけませんでした。「うちば置いてくんやね。いいですよ、もう仕事は覚えましたし。お世話になりました」さすがに冷たいな、と心わずかに思いました。僕は言い返すでもなく、うじうじと黙ったのでした。「……先輩は卑怯ばい。もっと怒ってください。先輩は確かにいつも眠たそうにして、ぜんぜん会計のこと勉強しなくて、うちの方がもういろいろなこと知っとうよ」彼女は一息に喋りました。「でも……先輩はこんな生意気な後輩にすごく優しかしてくれたけん……うちは、先輩がうちのこと周りに誤解されんようにしてくれてたこと……」そこから先の言葉は出ませんでした。何かがつかえるように、彼女は俯いてしまいました。それでも絞り出すように「うち先輩いないと寂しか」と言うのでした。しかし、ここから僕は女性のしたたかさを体験するのでした。彼女はいきなりデスクに戻ったかと思うと、広げていた一冊のテキストを僕の胸板に押し付けるのでした。「勝ったら。うちより簿記が分かっていたら辞めてもよか。でも、それまでは仕事が引き継げてないことやけん、駄目ですよ」呆れかえりました。そんな道理が通じると思いませんが、彼女は天神様を信じるかのごとく至って真剣な眼差しだったので、僕はなぜかそこで、本当に唐突に、来年の夏まで生きようか、と思ったのでした。僕は了承していたのでした。そして、いつまでも押し当てるテキストを彼女の腕ごと取りました。「せ、先輩なんしよっと、せっセクハラたい!」けれどもすぐに「ばってん」と逆接を使ったかと思うとくるんと後ろを向いて、顔だけでこちらを振り返り「今は許しちゃ」と笑いました。その直後です、僕は自分の首にぶら下がるネクタイが真下に備わるシュレッダーの投入口に滑り込むことに気が付いていませんでした。シュレッダーは轟音を出してネクタイをどんどん巻き込んでいき、僕の動脈が締め上げられるまでに数秒も要さず死にたいのでした。

1コメント

  • 1000 / 1000

  • まるzombie

    2018.10.25 14:27

    これは次のない短編かい?