桃源鳥【後編】 LUNA series


「隊長、あそこに鳥がいる」

 ビークルの洗車を終え畔で一息ついていた頃、ティヒは双眼鏡を覗いて辺り一帯を観察していた。

「ああ、あれは桃源鳥だね」

「とうげん、ちょう?」

「そう、桃源鳥。このコラルド荒野には繁殖の時期に渡ってくる鳥類で、天敵の少ないこの荒くれた地域において、唯一オアシスのような場所を知っているから“桃源郷を知る鳥”と呼ばれているみたいだ」

「へえ」と感心したふうに答えたティヒは一言、「美味しいの?」と聞いてきた。

「え?」

「美味しい?」

「いや、どうだろう。僕も食べたことないけれど」

 桃源鳥のサイズはわずか二〇センチほど。確かにこの荒野では貴重なタンパク源であるが、可食部位も微々たるものであろう。断崖の岩肌に巣を作り繁殖する彼らを捕食できるのは、道具を使える人間だけだ——

「隊長、私が捕ってあげる」

「どうやって?」

「それは……」そこでティヒは初めて言葉を詰まらせた。

 光と影が濃く色取る峡谷の中、オルトはパラソルの下でアイスコーヒーを飲み下した。温度とは、不思議だ。触れ合った輪郭が知覚によって認識される、冷えきった流体が口腔、食道、胃、小腸——人体の組織がこういう造りなのだと思い知らされる。

 火照りきった自分が冷静になっていく束の間をオルトは待った。いつかこの時が来るかもしれない、そう思いながら、両の手を握りしめて言い淀む少女の言葉を待った。

「銃を使って」

「駄目だ」

「大丈夫!」

「なにが大丈夫なんだ? それよりもティヒ、君は銃を使いたいように聞こえる」

 沈黙。風がティヒの赤髪を吹き付けた。そよそよとなびいていた陸風が突如、岩肌を駆けるように二人を通り抜けた。

 ティヒの眼差しがオルトを捕らえた。

「私、役に立たないとここにいられない」

 その言葉にはっとさせられたのは言うまでもない。同時に、年端もいかぬ少女が吐露した思いに、オルトは打ちのめされる他なかった。

 その後、二言三言の問答はあったが、ティヒに装填を教えることになるのは時間の問題だった。


***


 荒野を北上していくとコラルド連峰が鋭く聳え並んでおり、数ある山脈でも随一の峻険さを誇っている。コラルド川はその北コラルド山に源を発している。

 今でこそコラルド川は地球最大級の大河川であるが、源泉はわずかに一しずくだという。竜の涙ほどの一滴が、悠久の時を経て大地を削り大峡谷を造り上げた。岩石は成すが儘に浸食され、多くは摩訶不思議なトーテム型を象った。幾年月を経てコラルド川が造りだした大峡谷のモニュメントは、景勝地でもあり、決して目には見えない“自然”という概念を畏怖するための偶像にもなった。そうしてモニュメントの周辺には、コラルド川から伸びる水源も豊富なため、乾いた荒野のオアシスになる役割も担っていた。

 モニュメントは荒野のあちこちで形成されているが、支流の規模が大きくなると農耕も可能になり、集落を形成している場所もあった。集落は時を経て、村から街へ、旅から貿易へ、貴重な補給源として成長していく。

 殊更、神がシャベル薙いで遊んだようなコラルド荒野には、何ヵ所か主要な拠点が自ずと作られていった。ヒルジ等は、そこで補給をするよう命を受けていたのだった。


***


 薬莢の爆ぜる乾いた音が、モニュメントにこだまして荒野に長く残った。

 その残響がヒルジの耳に届いたすぐ、また銃声が轟き渡り、一定の間を置いて同じことが繰り返された。

 駆け抜けるビークルのエンジンと風圧に遮られながらも、ヒルジは聞こえてくる音に集中した。

「聞いたか」

「ああ」サイドカーにいるサクはすげなく答えた。よりエンジンに近い彼でも、発砲音は耳に届いたようだ。

 音の主は、どうやら我が部隊が停泊するポイントから聞こえてくる。

 ——パーン。また聞こえた。弾丸が放たれているであろう音自体はその一つだけで、争いが伴うようなものではないことが分かり、ヒルジはいくらか安心した。

「お前のやつじゃねえか?」

 その銃声は明らかに電子型ではなく旧式の銃声であるから、ヒルジは確認をした——そんなガラクタを好んで使う、身近な隊員に。

「自分の物ではなさそうだが」サクは思い当たることでもあるのか、むっつりと答える。

「だが?」

「この音は聞いたことがある」

「どこのどいつのだ!」

 サクはいくらかもったいぶってその名を口にした。

「うちの隊長」

 舌打ちをしたヒルジはビークルのスピードを一気に速めたが、そのときはすでに遅かった。

 隊長はとにかく射撃が下手なんだ!


***


 レンズの向こう側で、小藪に佇む一羽の桃源鳥が羽を散らした。

「ヒット」

「やった!」

「よし、撃ち方待て。銃口は向けたままトリガーからゆっくり指を離す。そう、そのまま。左手を使っていいからセーフティを下ろす。オーケー、じゃあ地面に横にして」

 ふう、と互いに息をついて、オルトはティヒと顔を見合わせた。火器を手放したことで、食いしばった口元からは程なくして緊張がほぐれていった。そして初めての獲物に対する興奮が身体の底から出てきたようで、ティヒは隊の長に笑顔を向けた。

「隊長、早く取りにいこう!」

「うん」

 初めての獲物だ。桃源鳥の骸を目の前にするとき、それは彼女の心に何を刻むだろうか。

 僕はティヒが生きる分岐点を一つ変えてしまったのかもしれない、年端もいかない子供に命を奪う行為を与えてしまった。ティヒの興奮冷めやらぬ表情を見て、この子は命を奪うことに対して少し鈍感かもしれないとも思った。

 いや——そこまで考えたところでオルトは改めた。

 この子は奪うことに鈍感ではなく、奪われることに敏感なだけなのだ。「役に立たないとここにいられない」子どもとは思えない発言の裏には、この隊に居場所を確保しようという必死な思いがあるのかもしれない。

 そこを、決して誰にも奪われぬよう。

「隊長……どうしたの?」

 一瞬の沈黙さえ素早く感じ取り、ティヒは不安げな眼差しを向けた。

 この子はとても賢く、そして臆病だ。

 子どもっぽい隊の男どもに代わって、ティヒはより大人びてしまう。月に見放された“幸運”の少女、彼女の境遇は察するに余りある。そして、子どもらしからぬ言動もまた、そうさせてしまう健気さを思うと、オルトは胸につかえてしまうものがあった。自らを縛るどんな規則も、ティヒの無邪気さを引き出すためならば軽いものに思える。

 オルトはたまらず、砂を被った赤髪を撫で回した。

「わっ」

「ティヒ」

「うん?」

「よくやった。君の初めての獲物だ。射撃はもう僕の腕を超えた」

「ほんと!? でも、隊長の言う通りにしただけだよ?」

「僕はサポートをするだけさ、筋が良くなければここまで出来ないよ。さすがサクの弟子だ」

 しゃがみ込みティヒと目線を合わせた、珍しい太陽のようなレッドアイズを見つめ、付け加える。「それもいちばんの、ね」

 隊の長から放たれた言葉はティヒの中でゆっくりと浸透し、そして意味を理解したときに沸き立った。堰が外された感情の流れは、勢い余って彼女を突き動かした。

「ありがとう!」首根っこを抱きしめて飛び跳ねるティヒは、紛れもない少女のそれだった。「隊長ありがとう、とってもうれしい」

「良かった。さ、後はちゃんと命をいただこう」

 オルトはティヒを抱きかかえて立ち上がる——その時だった。

 こぼれ落ちた薬莢が地面に跳ね、辺りに転がっている無数の同じものにぶつかって金属音を鳴らした。オルトはそこで初めて我に返った。自らの足元には黄金の真鍮で作られた薬莢が散らばり、炎天を受けまばゆい光を放っている。火薬の匂いが鼻をくすぐった。

 やってしまった……

 何十発使っただろうか? 今日、ヒルジとサクに補給を命じた理由は何だったか。数時間前の記憶は都合よく忘れられるわけでもなく、克明に思い出された。

——弾薬が不足しているから載るだけ頼むよ

 踏みしめた薬莢の音が心臓に突き刺さる。悪い知らせはいつも人を翻弄するようにやってくる、ヒルジのビークルが全速力で近づいてくるのが聞こえてきた。

 ティヒに顔が見えていなくて良かった。きっと今はコラルド川よりも鮮やかなコバルトブルーが僕の顔を染めているから……

「ティヒ、ジパングの焼き鳥っていう食べ物は知ってるね?」

「え、うん。隊長に教えてもらったやつだよね。ソイソースを使うやつ」

「今日はそれを作らなければいけなくなった。それから麦酒も冷やさないと」

「どうして?」

「すぐ分かる」


 砂煙に紛れてビークルが止まる。濛々と舞う砂塵からヒルジの声が聞こえた。

「オルトぉお!!!」

 怒声がモニュメントにこだまし、桃源鳥が青空に羽ばたいた。

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