【夏の読書感想文】円城塔『バナナ剥きには最適の日々』


 夏休みと言えば何だろうと考えたとき、ふと思い浮かんだのが朝顔と読書感想文だった。もっとこう海水浴とかお祭りみたいな皆で「きゃいきゃい」するようなTHE SUMMERが出ればいいのに、朝顔は自由研究で読書感想文も無論そうだけど、どちらも宿題なのがなんだか虚しい。きっと前者の思い出は筆者の人生で皆無で、しかも宿題すらやってなかったのだと思う。せめて宿題だけでも今から取り返そうという魂胆かもしれない。



 

 前置きはああ書いたが、意外にも筆者、特に朝顔の育成はちょっとわくわくしている。植物の育ち振りなんて、小学生の頃はまったく興味がなかったけど、今は定年後のサラリーマンよろしくガーデニングがしたい。したいけど庭がない。そうするともうプランターで朝顔を育てるしかないのだが、つい先日友人と飲んでいた時この話をしたら「種撒くの遅くない?」と首を傾げられ、「そんな馬鹿な」と思ってその場で調べたらもう一、二か月過ぎていた。

 確かに八月に入ってからというものの、朝顔が綺麗に開花した鉢を持った小学生を目撃していた。子どもたちは八月にかけて開花させるため、それより早く種を撒き、発芽させ、蔓を伸ばして、花を咲かせていたのだ。

「今からじゃ遅いかな?」

「そりゃ遅いよ」

 筆者は勢いよくビールを流し込む他なかった。


 

 いよいよ残っているのは読書感想文のみである。これについてはあんまりやりたくない。なぜかというと、考えるのが面倒くさい。

 昔からそうだ。筆者はいつも感想といわれても「面白い」か「つまらない」しか出なかった。だから先生に「どこが面白かったの?」と聞かれて初めて、「ここがこうこうこう……」と考え始めるのだった。先生の情操教育のお陰で筆者は感情を培ったのかもしれない。

 でもやっぱり、こうしてキーボードを打つのが、スーパーマリオ64の最終クッパステージくらい面倒くさいから、文字数を決めて感想を書こう。1,000文字以内。



 これをお読みの方はタイトルでどういう内容を想像されただろうか? バナナ剥きには最適の日々――これは宇宙に漂う無人探査機を描いた物語だ。SFである。

 自らを“僕”と呼ぶ星間探査球は、特に目的もなく人間によって打ち上げられた。が、一応到着した星々に旗を置いていく仕事を与えられていた。

 この“僕”という存在は探査球の一機能で、もしも宇宙人と遭遇した際にそれが本当にそうなのか判定するため備え付けられている。人間っぽい回路、人間の脳を真似した部品なのだ。

 探査球の“僕”には果てしない時間がある。人間の【僕】には想像もできない時間が。だから探査球の“僕”は、友達のチャッキーを頭の中に作った。システムには「自分を冷静に観察するための疑似人格」と、気が狂っていないことを慎重に説明してまで。でも、そのチャッキーは何の前触れなくシステム側で削除(デリート)されてしまったのだ。

 “僕”はそのチャッキーがどういう友人だったか思い出せない。彼を観察している側の筆者からすれば、とても切ない。しかも“僕”はチャッキーを失った哀しみを味わうどころか、「何かを懐かしむ」ということすら失われていて、その淡々とした語り口が一層切ないようにも思えるけれど、なんだかこちらまで肩の力が抜けるから面白い。

 友人をつくることにうんざりした“僕”は、「友人を新たに作る」より先に、「友人を失った哀しみ」を作ってみたり(ややこしいでしょう?(笑))、バナナ星人を想像したりしてひたすら星間を進み続けている。

 探査球の“僕”は次のように語る。

このお話を、あなたがどうして手に入れるのか。それは知らない。
(略)
あなたの裡(うち)の何かの宇宙が、僕のいるこの宇宙と繋がっている。少なくとも、まだ想像が及ぶ程度には。

 

 たくさん本を読んで、知識が増えたとしても、それって表現への変換がないと「ただ少し頭の良いおじさん」なんだなあって考えたことがあった。

 探査球の“僕”が漂う無限に広がる宇宙が、筆者の胸の裡に繋がったことを知ったとき、観測の蓋然性と果てしなさにとても感動を覚えた作品である。人はもう少し、自らの宇宙を語るべきなのかもしれない。

0コメント

  • 1000 / 1000