トークアバウト

 基本的にお喋りな女の子は好きである。ぺらぺらうにゃむにゃはきはきもごもご、どんな様でも僕より話すことが好きであれば、だいたい聞いていられる。
 なぜ好きかと聞かれれば難しいが、前提として、僕が話すことを苦手としているからだと思う。これだけは誤解されたくないから記載するが、あえて自分の情報を隠して“ミステリアス”を演出したりだとか、コミ障ぶり盾にして面倒事を回避しようだとか、そういう気はさらさらない。
 大人になって吃りを意識するようになった。僕の場合まったく深刻ではない(つまり乞音によって日常生活に支障がある人に比べてだ)が、例えば大勢の前でのプレゼンや、個人の会話でも吃りを意識したときに、言葉がつかえる。ちょっぴり出なくなる。そしてそれは、指の震えを抑えようと指先に意識すればするほど、震えは大きくなるように、吃りも“意識すればするほど”その影響は強くなる。これは乞音症の人の大半に当てはまると思う。そういうビミョーな身体のメンテナンスも必要で、自ら話すのが苦手だ。


 ただ、そんなことよりも、お喋りな女の子たちは、本当に四次元ポケットのように話題がぽんぽん出るし、あれやこれや他愛のないことも深刻なことも身振り手振り大きく、時にはしんみりボソボソ話したり、そうかと思えばイヒイヒ笑ったり、飽きない。そして勉強になる。こういう女の子たちは、僕にとって人生の教材である。
 それは世の女子高生たちを見ていれば分かるだろう。彼女たちは男の一歩、どころか、十歩も百歩も先を生きている。流行は得てして女子高生から生まれる(男はむしろ、過去のロマンとかいうのにこだわるタチだ)。
 ただし、そんな女の子たちといえど、反りの合わない連中もいる。ずばり一言で表現できないのが力不足だが、捻り出せば「陥れる女」である。
 女の子たちの話題に愚痴は欠かせない。これはもう、全世界をとってもそうだろう。というか女性に限らず、男どもも無論そうであるが、つまり他人を「あーだこーだ」言うのは、社会を営む我々にとって確実に必要な話題だと思っている。これを僕は否定しない。しかし、この愚痴は「自らが被られたこと」を根本にして欲しいのだ。してやられたこと、は防衛的プロセスをもって仲間に共有するのも当然だと思うし、人類にプログラムされた不滅なコードだと思っている。
 ただ、なんの根拠もなく他人の価値を下げる話題しか提供しない人たちは、どうやっても信頼が置けない。
 つまり、胸糞悪い。
めちゃめちゃ良い台詞なのに、作品が某海賊漫画に似すぎた結果、出版社もどちらが本家か分からなくなってしまい、挙げ句とあるゲームの決め台詞に、誤って採用されてしまった有名すぎる一コマを記載しておきます。僕が言いたいことはつまりこれ。ありがとうツキハギ漂流作家。 

 まあこれも、自らをたかーい棚に上げた発言だ。僕といるよか、地蔵と一緒にいたほうが徳も積めるし、良いと思うのだ。
 あぁ、お喋り上手になりたいなあ。

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