【映画感想】キネマティックが止まらない【①ギルバート・グレイプ】


Yahoo!Japan映画 あらすじ
「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」のL・ハルストレム監督による青春映画。アイオワ州エンドーラ。生まれてから24年、この退屈な町を出たことがない青年ギルバートは、知的障害を持つ弟アーニー、過食症を病む250kgの母親、2人の姉妹の面倒を見ている。毎日を生きるだけで精一杯のギルバートの前に、ある日トレーラー・ハウスで祖母と旅を続ける少女ベッキーが現れる。ベッキーの出現によりギルバートの疲弊した心にも少しずつ変化が起こっていく……。




 この映画について何から話せばいいんだろう、とずっと考えていた。僕は別に経験豊富な映画フリークでもなく披露できる知識も見解も浅いものだから、こういうときは「自分が映画の登場人物だったらどう考えるか(行動するか)」という自己に問いかける形で書き始めたいと思う。




 主人公ギルバートの一家が暮らす町エンドーラ。そこを包む閉塞感が、まず見ているこちらを息苦しくさせる。日本にも一時観光地として栄えたが、今や見る影もなく寂れてしまっている地方の町並みは多いと思う。しかし本作の町が抱える哀愁は、その場所に行ったことも見たこともないにも関わらず、酷く感傷的な気分を湧き起こさせる。

 そして、このとても狭いコミュニティに引きずられるように、ギルバートの一家もまた言いようのない閉塞が彼らの空気に満ち満ちている。知的障害を持つ弟のアーニー、その彼をいつも献身的に世話するギルバート、ヒステリ気味の末の妹、過食症の母、そんな彼らの食事を作り続ける姉。この映画の一つの主軸は「知的障害のアーニーがどのような過程を辿るのか」でもあるが、アーニーの言動に対しておれは正直に、苛立ちや絶望の感情を抱いたことを告白しよう。この感覚は漫画『ちーちゃんはちょっと足りない』を読んだ時に著しく近い。本当につらかった。何故って、アーニーの態度や言葉、文句の一つも言わないギルバートの日常を観ていてずっと「お前はどう思うんだ。なにかできるのか」と問われているように思えたからだ。実際にこういう家庭は現実に存在しているはずだし、だからこそ、だ。これは失礼を承知で書くが、おれはそういう家庭を勝手に「つらい」と一括りにしている。いや、本作を観るまではしていた。ギルバートたちのような境遇を持つ人たちの気持ちは当人にしか分からない、“つらそう”とか“大変そう”、と思うのは邪推に他ならなかった。 





 この映画のテーマをおれは「変化と自由」だと考える。月並みな表現で恥ずかしいが、実は、前述したエンドーラの町も物語の後半からどんどん変化していくのだ。こちらでいうマクドナルドのような大手のハンバーガー屋がやって来て、ちょっとしたお祭り騒ぎになる。絶対に変わりようもなさそうな町ですら、スローモーションのような緩やかさで変わっていく。

 無論、それは住む人間たちも同様である。むしろ人間たちが変わることで、追いつくように町が変わっていくのかもしれない。18歳という年齢の変化を迎えるアーニーに対して、ギルバートもまた自分の痛恨の変化に苛まれる。(ネタバレになるので書けないけど、これらに関わるシーンでやっぱり涙腺爆発。ギルバートを抱きしめたくて、えずくくらい泣いた(いつも))それに加え、ベッキーという旅する少女との出会いの変化。そして拒食症の母の変化。この二つは希望の象徴だとおれは思っている。

 最後に自由について。様々な悲壮にぶち当たるこの映画だが、結末としてはハッピーエンドだと考える。それはラストに描かれた自由がとても明るく爽やかであったから。ギルバートはベッキーと会ったことで、自らが家族に縛られていたことを認める。しかし、いつも傍にいたのは自由すぎるほど自由なアーニーだった。彼は本当に“不自由”なのだろうか? アーニーは、世界や社会の不自由から一番遠いところにいるのだとおれは思う。ギルバートは何かに気付いたのか、自分が自由になれないのは家族のせいではない、飛び出せない理由ばかり探していた。ラストシーンにはそんなメッセージも込められているのかもしれない、誰の為でもない人生を——自分自身の人生をギルバートは踏み出したのだ。「行きたいところは、どこにでも行ける」と。

 本当に名作だったよ「ギルバート・グレイプ」 POPEYEの特集で紹介されたのを読んでから、ずっと観てみたかった。もうねレオナルド・ディカプリオ演じるアーニーが迫真すぎて度肝を抜かれる。(なんか観る映画に障害をもつ役ばかり登場する不思議。偶然である)ラストにかけての熱いシーン(え、これどうやって撮ったの?!!)は圧巻にして必見である。愛、友情、裏切り、町、希望etc...人生の妙味が詰まった本作は、ぜひ皆にお勧めしたい。

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